金輪日食。
ご覧になりましたか。
私はこれが本日の最優先事項。朝4:30起床。
朝食もそこそこに、鋭意作動中の洗濯機もそのままに(ごめんね)
湖が見える月食鑑賞スポットへ6:00前には陣取っていました。
最初は雲に隠れ気味だったお日様。

やきもきしながら待っていると次第に雲がきれて
6:15ころからお日様は徐々に欠けてきました。
『星ナビ』付録の安心太鼓判つきフィルタで撮影してみた写真。

コンパクトデジカメですのでご容赦を。
私が陣取っていた場所は初日の出鑑賞スポットとしては
ご近所で少々有名らしく、新年にはそれなりの人出なのですが
この日は予想に反して我が家族以外だれも見当たらず。
通勤通学の皆様が月曜日の緊張感みなぎる足取りで過ぎていくばかり。
みなさま日食に興味ないのかしらと思っておりましたが
欠けが大きくなるにつれて人々がちらほらとやってきました。

そしてフィルタを使っている私をちらちらと見ながら
裸眼で太陽をご覧になっている。危険。
そこでちょっとにっこりしてみたところ。
そばへ来られて話が弾み、一緒に観測出来ました。
年配の女性でとても楽しそうにお話をして
家族が仕事に行くのもほっぽらかして見に来ちゃいました♪
という弾けっぷり。

滋賀県では完全な環にはならず、下の方が開いた状態でしたが(手ぶれ写真ご容赦を)
人との和を作れた朝だったのでした。
家へ帰って洗濯物を干しつつもガレージの木漏れ日を激写。



結局10時近くまで楽しみつくしたのでした。
観測スポットに座り込んだ6:00頃には太陽の光が眩しくて少し暑いほどでしたが
最大の欠けになった7:30頃は何となく薄暗く夕方のようになってうす寒く
いかに太陽の力が大きいのか、いかに普段太陽の恩恵をこうむっているのかを
実感できたのでした。
天体観測などなかった時代の人々がこの現象にどれほどの恐怖を感じたことか。
暖め守り育ててくれていた太陽がかげり消えていってしまう。
自分たちも生きていられなくなってしまう。
当時の人々が太陽を自然をあがめ敬う気持ちが
ほんとうにわかったような気がします。
夏に向けて、早起きして太陽を拝もう。
- 2012/05/21(月) 15:18:03|
- 分類なし
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展覧会のハシゴを名古屋でやってきました。
一つ目は、かねてから行きたかった
ベン・シャーン クロスメディア・アーティストベン・シャーンの作品に出会ったのはかれこれ20年ほど前に
友人の車で大川美術館へ連れて行ってもらった時。
あの線に魅了され、その頃刊行された
講談社の作品集(今は絶版。再販して!)を
ためつすがめつ眺めてあの線をまねてみたりしたものでした。
もちろん全然無理でしたけれども。
ベン・シャーンというと、社会派のアーティスト、という面が前に出ていて
あの軽やかで可愛らしくおちゃめで美しい面にあまり眼をむけられない。
もったいないなぁ、とひそかに思っていたのですが
今回のこの展覧会は、「クロスメディア・アーティスト」と題されているように
絵画、写真、デザインと、ベン・シャーンの全ての面を見ることが出来て、
大満足でした。
第五福竜丸などの事件を題材にとった作品を制作するのは、
事件そのものに対する怒りの深さと
それに関わって人生を壊された人、その一人の人の
かけがえのなさへのまなざしからなのだと思います。
私たちはTV新聞で毎日いろんな事件を目にしては
「ああ、またか」とつい思ってしまう。
でも「またか」な事など、どこにもないのです。
そこにいるのはかけがえのない一人の人。
その人が背負ってしまった事なのです。
「一人の人へ向けられたまなざし」を写真からも感じました。
人だけではなく、さまざまなものや風景へのまなざしも。
写真をスライドで見せてくれるコーナーがあり、
テーマなどでくくらないでランダムに3秒ずつぐらいで
写真を次々と見せてくれます。全部見て20分ほど。
ベン・シャーンの眼を体験させれくれます。
そして、絵を見ていて改めて思い出したのが
ちょっと話がそれますが、『竹光侍』。
初めてあの漫画の絵を見た時に、「これはベン・シャーンだ!!」と
感じたのですが、やっぱりそうだと確信しました。
作者の松本大洋氏もベン・シャーンお好きなのでしょうか・・・。
二軒目の展覧会は、友人のツイートを見て行きたかった
豊田市美術館の常設特別展
「みえるもの/みえないもの」所蔵作品のうち写真を中心の展覧会なのですが、
心を射抜かれたのがソフィ・カルの作品。
生まれつき眼が見えない人たちに、
「あなたは何を美しいと思いますか」と尋ね、
その答えの言葉と、それを連想させる写真とを
答えた人の写真と共に展示されていました。
壁面にそれぞれの人の写真と言葉とイメージが
飾られている様子は、何か祭壇のような厳かな雰囲気があり
その一つ一つを解説の日本語シートを片手に見ていったのですが
生まれつき眼が見えない人たちが、
海や緑や山や自分のパートナーを美しい、と感じるという事に、
どのようにして感じているのか、私たちと共有のイメージではないのか
など深く深く考え込みました。
そして、眼という器官を使っている私たちが感じているこれも
共通のものではないのではないのか。
美しい、という感覚は何なのか。
見つつ考えつつ、呼吸がとまりそうなほどの体験でした。
最後の一人の方が、
「私は美しいを断念した。私には美しいという感覚がわからない。」
と答えていて、この人だけイメージの写真がない。
深い絶望の穴に落ち込むような心持になりました。
ソフィ・カルの展示の次には、曽根裕さんのビデオ作品が。
町のあちこちで100回ほども自分の誕生日パーティをやって
バースデーソングを歌い、ケーキのろうそくを吹き消すというもの。
今日がお誕生日の私もこのエンドレスなバースデーソングに
暖まり、お裾分けを貰い、ほくほくと帰ることが出来たのでした。
- 2012/03/25(日) 10:54:04|
- アート
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大阪で開催中の
柳宗悦展-暮らしへの眼差し-東京に住んでいたときには
駒場にある日本民藝館に足繁く通い、
展示されている品々を見て何時間も過ごしたものでした。
民芸の品は沢山見ているし、この展覧会も行かなくていいかな、
などどゆるく思っていたのですが
他に見ておこうと思う展覧会が大阪にあり
重い腰を上げて見に行って、大正解でした。
一人の優れた目によって集められた美しい品々。
集めて展示されているから、ああ美しいと感じることが出来ますが
これが民家の軒下や物置に土まみれで放置されていたら
それを美しいと見い出すことなどとても出来ない。
見い出して集めてくれてありがとう、ソウエツさま
と感謝しつつ、どうしてこれを見い出せるのかと思っていたら、
同じように思った人たちから問われたことへの答えとして
語った言葉が記されていました。抜粋です。
今見ヨ、イツ見ルモ
・・・・・
たとえ昨日見た品でも、今日みなければいけない。
眼と心が何時も新しく働かねば、
美しさはその真実の姿を現してはくれぬ。
何も美しさのことのみではない。
一切の真なるものは、今見る時にのみ、
残りなく、その姿を現してくれる。
・・・・・
いつも身近にあるものでも
見るたびに今はじめて見るのだという心持で見る。
毎日会っている人でも、
今初めて会うのだという心持で会う。
今に集中するということなのでしょう。
真に生きるということは。
よそ事を考えながら顔を洗わず
顔を洗うことに集中する。
よそ事を考えながらみかんをむかず
みかんをむくことに集中する。
よそ事を考えながら電車に乗らず
電車に乗ることに集中する。
毎瞬こんな心持で生きていたら
見えてくるものがあきらかに違ってくるのかもしれません。
できそうにないですが。
努力してみます。
- 2012/02/06(月) 08:59:30|
- アート
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友人が始めていたのでそのフォローをすべく
ツイッターというものをはじめてみました。
sakuratama1
つかい方もよく判らなくてあまりツイートできてませんが。
- 2012/01/15(日) 11:08:55|
- 分類なし
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今年いっぱつめの展覧会詣
犬塚勉展ー純粋なる静寂ーおととし(その前の年?)の日曜美術館で見て
こんな人がいたのか!とびっくりして
とにかく実際の絵を見たい!と思い続けていた画家。
日々目にする雑草や野原はなんてことない風景で
わざわざ絵にしてみようとはなかなか思わないものかもしれません。
わたしは
わが家のほったらかしの庭にもりもり生えてくる雑草も
やっかいながらそれなりに愛しく美しく見えるものの
それをひとつずつ丁寧に描いて再現するエネルギーはない。
でも
その何てことない雑草や野原にある一つ一つのものに宿る命が
全部集まってこの世界になっているのだという認識はあり
それらの命をなんとなくスルーしてしまっているのが
歯がゆいような思いを持ちながら暮らしています。
この人の絵「ひぐらしの鳴く頃」は
なんて事ない野原に生えまくっている雑草の数々を
一本ずつ全部命としてとらえて描き
離れて画面全体を見ると、命の合唱が聞こえてくるような
そんな作品です。
会期中にもういちどいきたいと思います。
- 2012/01/12(木) 09:52:51|
- アート
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